20161029

(整理しないと自分の中で消化できないので、書き起こしました。乱筆乱文ですが忘れたくないことも含め。)

楽しい話は書いていないので予め諸々お願いします。1人でも少しでも人生を大切に思ってくれたら。

 

 

 

2016年10月末日 木曜日

月日の流れが早く感じるってみんなが言い出した頃。テレビで見たのかな、大人になると経験したことを繰り返していくので早く感じるらしい。子供の頃は初めての事ばかりで毎日が新鮮で長く感じるそう。だから人生27年目だった昨年の私は仕事も4年目が終わる頃、大きな変化もない毎日に、1年て早いなぁ、気付いたらまた年末だよ~などと言っていた。仕事を辞めようかなと思っていた、転職でもしようと。そろそろ30だし。とくにあてもなく辞めようかなと。仕事をしながら転職先を決めるつもりだった。退職の手続きも進めていた。

 

 

あの日は休みで木曜日だった。昼間は買い物をしていた。いつもの木曜でいつもよりも穏やかな陽気で、ついつい窓を開けて昼寝をした。忘れもしない夕方17時半頃、思いの外ぐっすり眠った。眠りが浅くなった時、ケータイのバイブに気づいた。休みにこんなに鳴らすなんて絶対クレームだよ、最悪……と出るのを躊躇った。が、表示は店の長い名前ではなく母。

 

後に通話を終えたケータイを見ると留守電を入れるでもなく、かわるがわる両親から電話が入っていた。1分くらいで気づけたようだったがその間に数件の履歴。

電話の内容は、ぐっすり寝ていた人間が起き抜けで聴いて理解できるような話ではなく、はじめは全く変な夢を見たなぁ、なんて思うくらいだった。受話器の向こうのあまりに慌てた声色から、いくら聞いても全ての言葉の意味が理解できなくなったかのような状態になった。とにかく私が今から行くべき場所、駅、それだけを頭に理解させて仕事に持っていくカバンをそのまま持って、何を着ていたかも覚えてないけど上着も羽織らずとにかく家を出た。(仕事柄、使っていないハンカチが2枚予備で入れてあってこんなに役に立ったことはなかった)帰りは車だろうなと、それも思い浮かんだから自転車には乗らず家から徒歩3分の駅までダッシュした。さっきの電話では理解できなかった話を自分の中で反芻させながら走った。地に足がついていないような感覚のまま電車に乗り込んで足を止めた瞬間に怖くて怖くてどうしたらいいのかわからなくなったけどカバンを抱えて下を向いていた。まだ決まったわけじゃないのに不吉だし、会って話すまではわからない。もしかしたらこれは全部夢かも。会って話せるかもしれない。泣いたりしたら大袈裟だなぁって笑われる。笑った姿は容易に想像できた。だから会った時に話す言葉まで考えた。

びっくりしたよ、なんてことなくて安心した!早く良くなってね。退院したらごはんいこ!

 

 

電車で30分、呼ばれたのは隣の市の大きな病院。病院の最寄り駅で仕事を切り上げてきた父と合流できた。母は出先から車で向かうとのことだった。さっきまで元気を出して行くぞと決めていたのに、見たこともないような父の表情からは不安しか読み取れなかった。シャトルバスがもうすぐ来ると伝えると、いいから、タクシー捕まえて、と。どういう状況なのかタクシーに乗り込んでから、なんとなく小さな声で聞いてみたが、答えてくれなかった。聞こえていなかったわけではない。苦い顔で黙っていた。到着した途端、父は支払いをしながら私に先にICUに行けとだけ言った。医療には詳しくないけど危険なことだけはわかってしまった。ドクターXだとかコードブルーとかで聞くやつだ。受付の人に聞く声も自分の声とは思えないくらい上ずっていた。誰もいない暗い廊下を全力で走った先にあったのは、すぐには入れない部屋だった。インターホンを押したらすぐに、お名前と続柄をどうぞ、と言われた。続柄なんて、書類でしか書かないし普段聞くこともない。簡単には入れてくれない部屋だった。マスクをして、手を洗い消毒もした。扉は3枚くらい開けた。最後は重たい引き戸。カーテンを開けた瞬間に喉の奥がぴたっとくっついたようになって、一言も声が出なくなった。ついさっき自分の名前と、「いとこです」、と言えたのに。さっき準備してきた会話の出番も来なかった。

 

 

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2014年1月

ちゃんと時間を設けて会って話したのは1年以上前だった。小学校からの共通の友達と一緒に地元のファミレスで夕方から夜中まで喋った。会えない距離ではなかった、むしろ目と鼻の先に住んでいた。生まれた頃から気が付いたら知っていて毎日遊んでいたし学校も一緒だった。思い出と言ったらほとんど全部に登場する存在の彼女は、私と同い年のいとこ。友達も少ないしひとりっ子で消極的だった私にとって、とても大きな存在だった。いないからわからないけど姉妹のような感じだと思う。昔の私は1人では何もできなかった。幼稚園もはじめは基本登園拒否。最近知ったことだが、見かねた親が園に頼み込み、年長の時は私たちを同じクラスにしてくれた。運動は嫌いなのに一緒ならできると言って体操教室にも入った。嫌いな野菜は全部食べてもらっていた。自転車に乗れた日も、初めて子どもだけで買い物した日も一緒にいた。捕まえられなかったピカチュウを通信ケーブル(懐かしい)で私にくれたりもした。学校で困るといつも彼女のクラスまで行っていた。教科書やジャージ、挙句にリコーダーまで借りたりしていた。何かと忘れ物やミスをやらかす私はいつも一方的に頼って生きていた。18の時初めてのバイトも決められず、同じところに入ったくらいだ。成人式の時も写真屋さんでツーショットを撮ってもらったのが嬉しかったし、全部の節目は2人同じ制服を着て並んだ写真がある。お揃いの服で学校に行ったり。同じ色鉛筆、給食セット、なんでも一緒だった。書き始めたらキリがない。

あのファミレスの日、こんなことにならなければ、なんてことのない1日になっていつかは忘れてしまったかもしれない。今は話したことひとつも忘れたくないと思うほど大切な1日に変わった。なんてことないファミレスで、いつもはわざわざ写真なんて撮らないのに、珍しく写真を撮っていた。3枚のうち1枚はおかしいくらいブレてたけどなぜかカメラロールから消されていなかった。普段なら消すようなそれも大事な1枚になった。覚えているようなトピックスは何もないけど、いつも通りくだらない話をして大笑いしたことだけは覚えている。昔話、同級生の話、彼氏の話、仕事の愚痴、ライブの話。

友達兼、姉妹兼、いとこ。友達のようで友達ではない、一生関係性は続いていく間柄だった。お互いに遠慮もしないから、人には話さないようなことも話した。親切で優しくて、私とは全然違って、自分勝手な私の話も仕事の愚痴も否定せず笑って聴いてくれていた。ダメだよと諭してもくれた。いつもそうだった。ケンカをしたこともないし、大人たちからはいつも、同い年でよかったね、歳をとってもそうやってずっと仲良くやっていきなさいね、と子供の頃よく祖母から言われていた。80年は当たり前にそうしていくつもりでいたのに。27年で1人になってしまった。近すぎる距離に油断もしていた。いつでも会えるから次なんていつだっていい、時間なんて永遠にあると思ってた。この半年前に祖母の葬儀があった。あの日彼女は私に何気なく言った。(私より誕生日が遅いから)自分は最後まで残ってここにいるみんの、私の骨まで拾ってくれると。よろしくねなんて笑った。

 

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そうやって2度と話せなくて、笑い合うこともなくて、一生会えなくなってしまうことになるのは、金曜が終わって土曜日になる頃の明け方だった。順番が違うじゃない、私の骨拾ってくれるって言ったのに。

私がやっと少し眠った頃にあちらの世界に行ったと、土曜日の朝になって知らせを聞いた。少し寝てしまった自分が嫌になったけど起きていたからって何もできない自分でしかなかった。一生夜のままでもいいからあの夜が終わらなければよかったのにと絶望した。頭が割れるほど痛くなるくらい泣いた、大雨の前夜と打って変わっていい天気なのがとても皮肉だった。

 

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木曜日 ICU

白くて大きくて無機質なベッドから見えた足は、本人の肌の色とは程遠い、何色って言ったらいいのかわからないような色で。すぐに顔を見れなくて、顔の方を見るまでにゆっくりと足首、ふくらはぎ、片方の膝、管でグルグルになって何ヶ所にも針が刺されてこれまた色のなくなったような右腕、反対にも色々付けられてかわいそうなくらい腫れた左腕を見た。少し冷たくて、でも暖めたら戻りそうな温度の指先に自分の指を絡めてみた。それから意を決してゆっくり顔を見たけど、パンパンに腫れていて私の知っている表情はどこにもなかった。寝顔だってたくさん見てきたけどそれとも違った。だけど陶器みたいに綺麗な肌で、あんなに可愛い顔なのに、開いてしまった目は、乾かないように湿ったガーゼが乗っていた。話なんて到底できなかった、それどころじゃなかった。それどころじゃないから、だから私はここに呼ばれたんだ。大したことなければ連絡なんて来ない。この日の朝急変して苦しんでいたと後で聞いた時には、何を私は呑気に買い物したり昼寝したりしていたんだろう、と落ち込んだ。暫くは楽しく買い物したり、ゆっくり眠ったりできなくなった。その間に何か起きるかもしれないと思うと怖かった。

ドラマでよく見る心臓の動きを示すピッピッ、と音がする機械は頭上の大きなモニターに映し出され、数字は赤い文字で点滅して、素人が想像で読み取るにもおそらく危険な数値なんだろうなと思うしかなかった。そう見えてしまう様子の本人がそこにいた。伯母も兄姉も憔悴しきっていた。すぐ後に来た父も、大きなため息と聞いたこともない悔しそうな声を出した。遅れて到着した母もベットの脇まで来て崩れ落ちた。その日の夜帰る時間がくるまで私はずっと片手を握っていた。4時間くらい。その時間は倍以上に感じたし、だけどあっという間にも感じた。握り続けた手が少し温かくなったから離したくなかった。何でもいいから分けたかった。

 

途中先生が処置をする間だけ名残惜しく手を離すと握り返す力は少しもなく、私の手の形のまま残った。待ってる間、小さな部屋で待機した。家族と親戚しかいないのに、誰も知り合いがいないエレベーターの中みたいに気まずくて狭くて四角い部屋の中、全員無言だった。

途中、普段たいして鳴らないケータイがよく振動するのでそれを理由に部屋を出た。あまりにも辛くてその場にいられなくなった頃、電話を理由に退席した。あの日は24コンの当落で、あ、みんなに連絡しないとな、とか、当落確認しないとな、とか、そういえば明日の仕事こんな酷い顔でお店には立てないな、とか、在庫発注、週末だからお店のお花を生け直さないと、とか、でも明日もここにいなくちゃ、でも退職の書類明日出さないと、と色んなことが頭の中を巡るだけで何もできなかった。職場の閉店間際、母に促され電話のできる場所まで行き連絡を入れたら、繁忙期前ということで休みを貰えた。帰宅して夜中だか翌朝にようやく当落を確認したり、シフトを眺めたりした。その時は翌週の土日の出勤が葬儀になるとは思っていなかった。頭のどこかで過ぎってはいたけど考えないようにしていた。希望は捨てたくなかった。とにかく人の死というものが異常に苦手で、怖くて、いつもいてもたってもいられなくなる。それがまさか同い年のいとことなったらもう。

半年前の祖母の葬儀が彼女と会った最後の日、あの時話したいことがあった。だがそんな場だから特にコレといった話もできなかった。また今度でいいや、と。こういう時、大人たちはバタバタと忙しく、私たちはいつも隣に並んでいた。

いつも横でお寿司を頬張ってたのに、彼女の葬儀の日は1人で泣きながら食べた。イクラ好きでしょ?エビもあげる。私はマグロしか食べない!親知らず抜いてすぐだし何も食べれない!フルーツちょうだい?天ぷらは鱚のやつがいい!と言う私に、大人になっても好き嫌いしてしょうがないなぁって笑ってお皿に取ってくれる彼女がいないのが嘘みたいだった。両親は、家族に変わって同級生たちに挨拶に行ったり、私は立っているのも限界で控え室にいた。周りの涙は落ち着き、談笑したり和やかな時間が訪れても尚1人で大泣きして、この日も殆ど食べない私に本家の叔父さんは、ほら泣いてないで少し食え!何も食べてないんだろ、と励ましにきた。

いつもはお寿司食べてもらって交換してたんだ、思い出したら悲しくて1人じゃ食べられない。そう伝えると、そうかそうかと、泣きながら聞いてくれた。

 

 

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木曜の深夜

車で病院を出て家に着いたのは金曜に変わる頃だった。皆食欲などないような顔をしていたが仕事終わりの父はなにか食べるか、とコンビニに寄ったが、私は後部座席に横たわったまま待っていた。食べる気にもなれなかったし夜中のコンビニにこんなに号泣してる人間が入ってきたら嫌だと思った。いつも極力、人前で泣くことは避けてきた。

 

一睡もできず翌金曜日も病院へ向った。無意味かもしれないけど一晩中祈り続けた。次会った時には回復しているかもしれない、とその時はまだそう思っていた。だからまた話しかける言葉を考えた。

だけどそれはすぐに叶わない願いになった。病院に着いた時には新しい診断が出ていた。このまま人工的に心臓や肺を動かしておくことしかできない、と。意識が回復する見込みもないし自分で体を機能させることはもう難しいとのことだった。聞いた言葉の全てを疑った。絶望、とはこれか。お医者さんも助けられなくて申し訳ない、悔しいと涙していた。

全身の力が抜けて病院の廊下に座りこんでしまい大人たちに抱えられて病室に入った。点滴も限界、輸血も限界、入れることはできても自発的に出すことが困難だとのこと。だから手も足も昨日より浮腫んでパンパンに腫れていた。握るのもかわいそうでその日は手のひらを重ねた。昨日よりも冷たかった。一昨日まで会話ができてごはんを食べていた人間が急に限界と言われても。本人が1番理解できていないだろう。この時、本当に時間は戻すことができないんだな、と痛感した。

 

今となっても、なんでそんなことになるんだろう?と、素人には少しわからないことが多かった。まさか死に繋がるような病状ではなかった。そもそも具合悪かったなんて聞いていなかったし、誰もが元気に戻ってくると思っていた。入院はしていたがリハビリが終わり、前日には元気にしていたと聞いた。悲しくて悔しくて、どうして、なんでこんなことにという気持ちが大きかった。狐につままれたようだった。後に解剖の結果や診断によってわかったこともあった。

この半年ほど前に友人も同じように母親を亡くしていた。私も直接お世話になっていて、友人とそのお母さんと一緒にライブに行っていた。そしていとこも私と同じバイトでお世話になっていた。

原因は結局わからなかったそうだ。こういうケースも多いらしい。お互いやり場のない気持ちを抱え、自分もまだ辛いだろうに励ましてくれた。症状は違うが似たような状況で色々話を聴いてくれた。こんなこと身近に何度も起きるような話じゃないと思っていたし、ドラマみたいに奇跡が起きて回復すると信じていた。

 

 

日本人の平均寿命を80年と考えて私の残りの人生が大体50年あるとして、半分あげてもいいから一緒に生きていきたい、と無理は承知で口にした。絶対にできないけど言ってしまった。みんなも黙って頷いたり涙を拭ったりした。誰も何もできないとわかると無理なことでも懇願しようとしてしまう。親戚の大人達もこぞって自分の命をあげたいと言って泣いた。彼女には幸せで明るい未来があって絶対に生きるべきだった。だから何の目標もなくいる私の命くらいいくらでもあげたかった。大事な人に対して、何も惜しくないと思う気持ちが初めてわかった。

 

 

 

日曜日、あれから3日

土曜の記憶はない。ただただ部屋で泣いていたんだと思う、そこから動いた記憶もない。だけどこのたった4日が長かった。前述のファミレスで会っていた共通の幼馴染みの友達に連絡を取った。話があるとだけ伝えた。まだ何も知らない友達はいつも通り元気な様子で返事と銀魂スタンプをくれた。それが辛くて仕方なかった。これから私が話すこと、きっと遊びやごはんの誘いだと思っている。どうした?何の話ー?と聞かれたけど、文字にして打ち込むことができなかった。送られてきた側もきっと反応に困るだろう。電話する?と言われたが家はすぐそこなので、会いに行きたいと言った。別にいいよ、待ってるね!と返事が来て出かけた。

家を出る前、母に改めて確認をした。

私今から話に行くんだけど、これは夢じゃないんだよね、本当なんだよね?これに対して母はただ泣きながら頷いた。

2分の距離に10分はかかった。今にも息が止まりそうで吐きそうで何度か引き返したりもした。最近通ることも減っていた小学校に向かう通学路で、色んなことを思い出していた。曲がり角でいつも吠えてきた白黒の犬ももういないことに気付いてもっと悲しくなった。

田舎なので玄関の鍵が開いてることは昔からわかっていたけど開けられなかった。緊張でどうにかなりそうだった。ピンポンすると向こうから、案の定、開いてるから入ってきていいのにー!と明るい声が聴こえてきた瞬間にその場で泣いてしまった。友達は相当驚いてそのまま私をリビングに連れていった。お母さんも驚いて駆け寄ってきた。久しぶりに会うのにこんな感じで申し訳ないと前置きしてからすぐに話をした。初めて人に向かってこの話をした。口に出すのも怖かった、言ったら本当になっちゃう、そんな風にまだどこかで疑ってる自分もいた。

 

かれこれ1時間くらい話した。

嘘、なんで、どうして、よりによって、なんでなんで、そう言いながら、泣いていた。帰り道、大丈夫と言ったけど途中まで送ると付いてきてくれた。街灯がかろうじて1つある真っ暗な曲がり角で止まって1つお願いをした。これから何があっても元気で長生きしてほしい。びっくりするくらい強くハグされて感じた人間の体温で、生きているのを強く実感した。生きてる人はすごく温かかった。

 

 

そこから2日経った日が母の誕生日、そして私が生まれてから10000日目だと、ケータイのアプリが教えてくれた。あぁ、私は10000日も生きたのか、と思うと同時に10000日にわずか足らず亡くなった彼女のことをまた考えた。運命だったのか、不運だったのか、はたまた運命なんてあるのか。悲しい別れではあったけど決して今までが不幸だったわけではないから、27年で終わったかもしれないけど、その内容は素晴らしいものだったと思っている。可哀想だね悲しかったねと終わらせたくない。ただ、終わるには早すぎた。

名残惜しい、物理的に彼女はこの世からいなくなってしまう、骨だけになってしまう。そう思うといてもたってもいられなくなった、気が狂いそうだったし、実際狂ったように毎日泣いた。結局葬儀の前日から仕事を休んで霊安室に向かっていた。あの時行っておけばよかったなんて後悔したくなかった。ただでさえ別れの挨拶ができてないんだから。

忘れるわけないけど、今の顔を見ておきたかった。冷蔵庫の温度まで冷えてしまった肌でも触れておきたかった。私の温度も忘れないでほしかった。

火葬前、最後の、本当に最後にも、お花を入れて棺の蓋をする寸前にほっぺたを触った。やっぱり最期も羨ましいほどの陶器みたいな肌だった。

 

若い人の葬儀というものは、本当に辛く悲しいものだった。出棺の時と収骨の時は辛すぎて覚えていないくらい泣いた。

通夜の夜、帰宅し、車から降りると人生で初めての流れ星を見た。大きくて青白く光って、上から下に真っ直ぐ私に向かって落ちて来た。かなり長かった。もしかしたら星になって会いに来てくれたのかもしれない。

流れ星を見つけたら、自分勝手ないつもの私なら3億円当たりますようにみたいなお願いをしただろうけど、この時ばかりは、どうか、向こうで幸せにと願うばかりだった。

 

 

2016年12月

そこから1ヶ月半、長く感じた。辞めるつもりの仕事も退職手続きが遅れて少し長引いた。かなり休んだし、復帰してもどうやって仕事をしていたか正直あまり覚えていない。延長したことで直前まで抱えていた大きな仕事のお客様とも最後のやり取りができて気掛かりが減り安心した。ノルマのない仕事だったので私は個人で顧客を作ることはなかったが、最後の最後にたまたま受けたこの仕事で前年比も大幅クリアしていた。最終出勤日も、珍しいくらいの豪華な売り上げ、普段出会えないようなことも起きて、修了試験でも受けているみたいだった。辞める寂しさを感じる余裕もないくらい忙しく終わった。いつもやってきたことなのに、辞める日になって当たり前だった毎日がとても嬉しく幸せに感じた。楽しかった。

その間も食事をろくに取らずに栄養失調になったりめまいで転んだりしていた。元気に生きないととわかっていても到底無理だった。

こんな感じでクリスマスの京セラまで行ける気はしなかった。行くのはやめようかなと思っていた。絶対的に明るくて楽しい空間にいられる自信がなかった。精神的にも体力的にも。だけど同時に、生きているんだから悔いなく好きなことはたくさんやっておかないと、という気持ちも出てきた。

 

葬儀や納骨の日に会う人会う人、親戚や同級生に声をかけられた。彼女の分までがんばって、だとか、無理をしないようにだとか、色々。生きているんだから、こうやってショックで倒れたりしてる場合じゃないぞっていう気持ちも出てきた。だけどあれからやっぱり毎日のように泣いた。楽しそうに登下校する小学生を見ただけでも楽しかった昔の自分たちを思い出して泣いた。前を向いて、なんてよく言われたけどそんな気分じゃない。みんなが前を向こうと、私はまだ彼女が生きてた日の方向に振り返りたかった。

  

24日、久しぶりに楽しみで早く起たし早く空港に着いた。旅行は何度も経験していても初めて行く場所は新鮮で気持ちを軽くさせてくれる。ホテルも豪華で4人部屋が広くて感動した。久しぶりにプラスな感覚を抱く自分に嬉しくなった。

京セラに遠征したことは意外にもなかった。ちなみに名古屋も福岡のドームも行ったことがない。(札幌は常連なのでなにかあれば案内は任せてほしい。)(突然のヲタク情報)

この日久しぶりに少しも泣かないでいた。悲しいことを忘れていた。とにかく楽しかった。あんなに笑わせてくれたセクサマと濵ちゃんには特に感謝したい。感動もいっぱいあった。ボクらを聴いたら泣いたし、シルエットも悲しくなった。歌を聴いて泣くことなんて、ほとんどしたことがなかった。

 そして最後の挨拶を聞いて号泣してしまった。

でもこれを観にくることができて、今日まで生きていてよかったと思った。大袈裟だけど本当に思った。だって来れなかった誰かもいたかもしれない。

ここに来るのをやめるという選択肢を選んでいた場合の私はきっと暗い気持ちでクリスマスも年末も部屋に閉じこもった挙句、後で後悔したはず。

 

ライブ中に桐山さんが27年で今日が1番、的なワードを言った。私もこんなに楽しいと思えることに出会えてこの27年の人生は素晴らしかったな、と図らずもタイトルみたいなことを思ってしまった。27年で終わってしまった人生を見送った後だから余計に。今生きていて幸せを感じている、些細なことにもそう思えるようになった。

一緒に行ってくれた友達、現場で会った友達、みんなに出会えたことも本当に幸せだと思った。状況を話していた友達には会う度暖かい言葉をかけてもらった。心配してくれる人がいるのは幸せなことだと実感した。こんなにも人にありがたいと思ったことはなかった。こうやって気付かせてもらうことがたくさんあった。

 

今までライブを見て泣くなんてこともなかなかしなかった。これも人前で泣くことになる。でももう私の涙腺なんてパッキンがぶっ壊れていた。淳太くんにもう泣くのは終わり!と言われ、理由は違えど1ヶ月以上泣き続けた自分を振り返ってハッとした。

 

 

2017年1月

年明けも元気にライブに行っていた。職業無職。収入もないのに24とツアー合わせて1ヶ月のお給料くらい使った。とにかく後悔しないように生きることだけを考えて、必死だった。社会人としてはアレだけど、とにかく好きなことをした。だって明日死ぬかもしれない。夏頃まで出かけたり友達に会ったり写真を整理したりした。思い出を振り返るのにまだ早いなんてない。いつ終わるかわからない人生、楽しかったことを思い出したりくだらないエピソードを話せるうちに話したい。観たいものを観て行きたいところに行って食べたいものを食べて会いたい人に会う。

あれからしょっちゅう考えるのは、もしかしたら明日この世にいないかもしれない、ということ。急に終わってしまうかもしれない人生、私は今年上半期と夏過ぎくらいまでを余生と思って過ごしてみた。だけどきっとまだまだ続く人生、貪欲に生きていきたいと思う。何もなかった目標も少し見つけることができた。ヒントは生前のいとことのLINEの会話にあった。彼女が思い出させてくれたこと、教えてくれたこと、何気ない一言に動かされた。これからがんばって、いつか向こうで会った時のみやげ話にするつもりでいる。

 

おみやげが多すぎて、忘れないように定期的にお墓の前で話を小出しにしている。仕事を始めたから応援してねなんて言ったと思えば、すぐに辞めちゃったんだけど、などと報告に行くこと数回…。呆れて笑ってくれただろうか、いつものように優しく笑ってくれただろうか。私達しかわからない思い出話もたまにしている。私たちしか知らない話、共感してくれる人がいなくて寂しいから。そして神社のごとく、見守ってくれとか応援してねとか色々頼み込む。いつも頼っていたんだからこれからも頼らせてほしい。

 

 

3ヶ月が経った頃、あの日ファミレスに一緒にいた友達とお墓参りした。昼間なのに曇って暗かった。まだ寒かったのでダウンコートを羽織って行った。いざ、線香に火をつけようとした時、風が強くてなかなかつかなかった。どうにか点火したが今度は風の効果で燃えすぎた。危うく火傷というか火事を起こす勢いで、あまりの慌て具合と滑稽なお互いを見てついつい2人で笑ってしまった。笑ったっていうより爆笑した。不謹慎という言葉が付き纏っていたけどその時ばかりは大笑いした。すると、私たちが立っているところ目がけて突然雲間から日が差してきた。黒のダウンが暑かった。風がピタッと止んで線香の煙と上品な白檀の香りが光と同じように真っ直ぐ昇って行った。2人ともちょっと驚いてまた笑ってしまった。喜んでくれたみたいだ。天国は空にあるんじゃないかという共通認識のもと、私も友達もずっと天を仰いだまま話し続けた。

車に乗り込むと途端に曇って風が強くなったのでまた驚いて今度は2人で泣いた。3人でやりたいね、と話していたことがあったができないままだった。後回しになんてするんじゃなかった。

 

 

最近、ある著名人の本で、

「してしまった後悔は段々小さくなっていくけどやらなかった後悔は大きくなる一方」

というようなニュアンスの言葉を読んだ。

 

生きている限り、いつも何かを選択していかないといけない。だからなるべく後悔をしないような選択を続けたい。自分に正直に、笑ったりたまには涙を流すこともアリだと思った。1回の人生、全て自分次第。勝手だけど、私は彼女の分まで存分に楽しんで長生きするつもりだ。

 

 

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2017年10月末日

思うこともあって考えすぎて眠れないここ3日で軽くMyojo 10000字インタビューくらい書いてた。笑

 

この1年は本当に長かった。そう思うのに、会えなくなってもう1年と思うと早くも感じる。1年、忘れた日はなかった。私のケータイの画面ではあのファミレスのドリンクバーを背景にいつもの満面の笑みを見せてくれている。向こうで会った時もずっと27のままの彼女に、大分後になると思うけど年老いた私の顔でもすぐに思い出してほしい。忘れないでね覚えていてね。老けないようにがんばるから!相談したかったことも話したかったことも全部持っていくから聞いてね。

 

 友達のように姉妹のように共に過ごした27年、楽しかったよありがとう。いつも助けてもらってたのに何もしてあげられなくてごめんね。1年経ったとはいえ今もまだまだ悲しくてこんなに会わなかったことがなかったから変な感じ。

時間が解決してくれるなんて聞くけどそれは当分わからないと思う。だけどこれからは楽しかったことを思い出して笑って話したい。(結構おもしろい人だったからネタがたくさんある)そうすることで、これからも彼女の人生は私や誰かの中で続いていくから。